朝崎郁恵 80年間の歩み

私、朝崎郁恵は、昭和10年(1935年)にアジアの東の端にある、奄美群島の加計呂麻島という小さな島に生まれました。ドイツで独裁政権が誕生し、日本でも軍部によるクーデターが起こったりと、世界中が第二次世界大戦に飲みこまれようとしている戦争前夜のような不安な時代でありました。

父は無類の唄好きで、毎日の食卓では、三味線と島唄での「唄遊び」が始まらない日はありませんでした。
母は唄だけでなく踊りの名手でもあり、集落の中でもとびきり優雅なその身振り手振りには子供ながらに感動したものでした。
幼少の頃、辺境の島である加計呂麻島にはテレビやラジオはもちろん、電気やガス、水道も整っていませんでした。
海と山に囲まれた豊かな自然の地形を生かした200人程度の私の集落では、水を汲み、薪を焚き、そして自然信仰に基づき森羅万象に祈りを捧げ、唄い、踊ることが日々に欠かせない営みでありました。
そのような奄美での暮らしの中で私は自然と、唄うこと、踊ることを身につけていったのです。

昭和16年(1941年)に、日本国が戦争に突入しますと、私の住む小島でさえもその影響からは逃れられず、島の要所には砲台が築かれ、空襲を受けることもしばしばありました。
1945年8月、9歳で終戦をむかえましたが、それから私が18歳の年まで奄美はアメリカの施政下に置かれることとなりました。
大変貧しく、食べるものも満足になく、公の教育などもほとんど受けることができない、それはそれはつらい状況が続きました。
しかし、それでも島の人はいつも明るく、日々を力強く生きていました。
そしてそんなつらい時代であっても、欠かすことができないのは島唄でした。※
島の人々にとって、島唄は心の灯であり、祈りであり、教えであり、会話であり、何百年何千年と口伝で受け継いできた、宝だったのです。
(※奄美では、戦中から戦後の長い間、島唄や方言も禁止され、この時期に島唄の唄い手が急速に減ってしまったのだが、加計呂麻島は奄美の中でも僻地だったためか、その影響が完全には及ばなかったのだろう)

20歳を過ぎて結婚を契機に島を出たときには、日本は高度経済成長に突入していました。
子を3人授かり、子育てに専念するようになり、日々の忙しさや、仲間がいなかったこともあり、自由に島唄を唄えない日々が何年も続きました。
この時期は私にとっては子育ての充実感と、電気もガスも水道も自由に使え、テレビラジオはもちろん、さらに日進月歩で豊かで便利になる経済成長の恩恵をたっぷり受けとることができる幸福とに恵まれていましたが、どこかいつも寂しさを抱えていました。
なんといっても奄美を離れ遠くに来てしまっていることが、心のつっかえになっていたのだと思います。

30歳を過ぎ、夫の転勤で、地方都市から首都圏に移住しました。
この頃の東京は、オリンピックも成功させてさらなる発展を遂げようとしていました。
テレビが白黒からカラーになり、普通の家庭に一台は置かれるようになっていった、そんな熱を帯びた時代でした。その東京での生活で私にも転機が訪れました。

それまでの地方都市と違い首都圏にはたくさんの奄美出身者によるコミュニティがあり、そこで島唄を唄う機会をいただけるようになっていったのです。
さらに 島唄を教える機会にも恵まれ、たくさんの弟子に伝えることができるようになりました。
私の人生に島唄が戻ってきたのです。
それから何十年かは子育てのかたわら奄美出身者のコミュニティーでひたすら島唄を唄い、伝える日々となりました。
そうした中で、国立劇場での10年連続の公演や、ニューヨークやキューバでの演奏会も実現していきました。

島唄を唄うことができる日々は充実したものでした。しかし一方では奄美島唄が置かれている危機的な状況を身にしみて知ることにもなりました。
奄美出身の人間であっても奄美の島唄を唄える人がほとんどいなかったのです。
戦中戦後を通じて、奄美の人々の生活から島唄が失われて長い年月が経っていました。その頃に奄美に生まれ、経済成長の中を生きてきた人は島唄を唄うことはおろか、聴く機会さえもなかった人がほとんどでした。奄美に限らず、日本の人々は皆古い文化を捨てて、経済大国としての道をひた走っていたのです。
そんな時代でも私の島唄を聴くと「なてぃかしゃ※」と言って涙を流してくれる人がいることが私の「唄う原動力」になっていましたがしかし、当時の私は「このままでは私達の宝である奄美の島唄が消滅してしまう。」という危機感をつのらせていきました。
そしてついに、この状況を変えていくためには奄美出身者だけのコミュニティから外に出て日本や世界という大海に向けて奄美島唄の素晴らしさを伝えなくてはと強く心に誓ったのです。
※奄美の方言で「なつかしい」だけでなく「心の琴線にふれる」というような意味

しかしそれは険しい道でもありました。
レコード会社に直接奄美島唄のカセットを持ち込み聴いて貰うと「奄美の唄は三曲聴くのが限界。何を言っているかわからないしどこで曲が変わったのかさえわからない。」と、とりあってももらえず、悔しい思いをしたことは今でも忘れられません。
なかなか有効な手段もないままに悶々と月日ばかりが流れていきました。

そんな状況を変えるきっかけになったのは、ある新聞に掲載されていた歌舞伎役者「市川猿之助」さんのエッセイでした。
「古いものは古いままで持っていたら生きていかない。ある程度創作しないと世の中に残っていかない。ただの宝の持ち腐れになる。」というメッセージでした。
歌舞伎を海外で公演したことで知られる猿之助さんのその言葉に勇気付けられて、伝統的な形だけでなく、洋楽器、しかも世界で最もポピュラーな楽器「ピアノ」で島唄を唄えないかと考えるようになったのです。
そうして、様々なご縁があり62歳の年に完成したのが最初にピアノと共演したCD「海美」でした。

一言でピアノとの共演と申しましても、それは簡単なことではありませんでした。元々、私の時代の島唄は西洋音楽とは全く違う成り立ちをしていました。
楽譜もなければ西洋音楽的な拍子やリズムの概念も、ドレミの音階の概念もありません。
その私がクラシック音楽をルーツに持つ方と一緒に音楽を作ろうというのです。
ピアニストの高橋全さんとは、いくつもの困難を乗り越えながらの試行錯誤の作業が続きました。
最初のピアノとのコラボ曲「おぼくり~ええうみ」のミックスを初めて聴いたときは、わが子を産み落としたような喜びに奮えたのを覚えています。

そうして完成したCD「海美」は発売してから徐々に地道に口コミで売り上げを伸ばしていましたが、すぐには大きな変化はありませんでした。
その状況が一変したのは、元イエロー・マジック・オーケストラの細野一臣さんがラジオで紹介してくれた日でした。
直後からラジオ局に問い合わせが殺到し、すぐに自主制作のCDとしては驚異的なヒットとなったのです。

それからは私自身想像もしていなかった展開となり、67歳にして初のメジャーレーベルからのCD「うたばうたゆん」を発売。その後も何枚も様々なジャンルのミュージシャンと共演をしてCDを作る機会に恵まれました。
ライブの回数も増え、年に何十回も、北は北海道から南は西表島まで、様々な土地で演奏をさせていただきました。

また76歳の年にはNHKBSの長寿番組となっている「新日本風土記」のテーマ曲を唄わせていただく機会にも恵まれました。
「日本」各地の文化風土を紹介するこの紀行番組で「奄美」の島唄が、ピアノや西洋の弦楽器の伴奏で、毎回番組冒頭に流れるのは感慨深いものがあります。

そうして81歳となった現在は、メジャーレーベル等とは契約せずに、地道に音楽活動を続けています。気がつけば奄美を出てから既に50年以上が経過していました。

ここまで長い道のり、ここには書ききれないことも含め本当に様々なことがありました。山もあれば谷もありました。
そんな中でも私の中で変わらないのは奄美島唄への思いの深さです。これだけは自信を持って言えます。

今、80歳を過ぎ、これまでの道のりを振り返り、思いを馳せるのはやはり「奄美」のことです。
島で育った幼少~青春時代はもちろんのこと、島を出てからも、私を支えてくれたのはいつでも「奄美」の存在でした。
奄美での暮らしの中で、家族や島の人々から受けとった愛情、教え、島唄や踊り、自然、風土・・・全てが今でも私の血となり肉となり、心となり、宝となっているのです。
私がこうして今唄っていられるのも「奄美」で暮らしていた時代にそこで受け取ったものが全て財産になっているからなのです。
だからこそ、今こそ、奄美にその恩返しをしたい。
そう考えています。

私が 島に、島の人々に、できるのはやはり「唄う」こと、そしてその素晴らしさを伝えることだろうと考えています。奄美の大切な宝として人々が何百年、何千年とずっと歌い継いできた唄を、絶やさないためのお手伝いをしたいのです。
ずっと、日本中、世界中の人に奄美の島唄を伝えたくてこれまでやってきましたが、やはり「奄美」の人にこそ奄美島唄のすばらしさを改めて伝えたいのです。

戦後何十年も経ち、気がつけば、戦前の古い島唄を唄える人は奄美でも私の世代のほんの一握りの人だけになりました。
戦後育ちの唄い手は戦後の音楽教育や西洋文化の枠の中でしか島唄を唄うことができなくなっています。
古い島唄を唄える最後の世代として、この、島の人だけでない、世界にとっての宝である島唄を担う者として、私にはそれを伝える責任があると思っています。